2009年08月16日
王妃誕生祝賀会
事務局のシンハーです。7月下旬より8月中旬まで協会の仕事とプライベートを兼ねタイを訪れました。中でも印象的だったのは8月12日のシリキット王妃の誕生会です。生誕を祝う盛大な催しがバンコク各地で行われました。この日は、母の日でもあり、敬虔な仏教徒であるタイ人は寺院参りをし、母親に対し感謝の気持ちをあらわします。
私はサナームルアン(王宮前広場)で祝賀会に参加しました。
特設舞台でのショウ

有名歌手やダンシングチームが祝賀会を盛り上げていました。このようなステージは王宮近辺にたくさん設けられていました。
王宮近くの路上

きらびやかなライトアップにより王妃の肖像画をうつしだします。王宮付近のメインロードの各所に王妃の肖像画が掲げられていました。
王宮前広場での花火


7時30分頃より見事な花火が広場内で打ち上げられました。私は、花火の至近距離にいたのでその爆音にかなりビビりました。日本の花火にも引けを取らない演出でした。
私はサナームルアン(王宮前広場)で祝賀会に参加しました。
特設舞台でのショウ
有名歌手やダンシングチームが祝賀会を盛り上げていました。このようなステージは王宮近辺にたくさん設けられていました。
王宮近くの路上
きらびやかなライトアップにより王妃の肖像画をうつしだします。王宮付近のメインロードの各所に王妃の肖像画が掲げられていました。
王宮前広場での花火
7時30分頃より見事な花火が広場内で打ち上げられました。私は、花火の至近距離にいたのでその爆音にかなりビビりました。日本の花火にも引けを取らない演出でした。
2008年07月17日
知って得する(?)タイの小ネタ話 その1
事務局@こばあるです。
一昨年、タイと日本は、2006年、修好条約を結んで120周年を迎えました。
一言で120周年といっても、ぴんと来ないと思いますので、
年号で表現してみると・・・1887年9月。
この1887年9月、両国の国交が開かれました。
詳しくはこちらをご参照ください
120年前に修好条約を結んだ日本とタイですが、
実は、両国のかかわりは、もっと前から始まっているといわれています。
アユタヤ時代にも日タイの交流が・・・・・・・
上記と同じこちらのHpより抜粋
(抜粋文章ここから)タイと日本との交流の歴史は非常に古く、1338年、将軍・足利義満のときに、暹羅(せんら=シャム、現在のタイ)船が1年間日本に滞在したという記録もあります。15世紀前半から16世紀後半にかけては、沖縄(琉球王国)を経由して東南アジアに派遣された多くの船がシャムを訪れています。
16世紀末、豊臣秀吉が南蛮貿易を奨励し、
呂宋(ルソン、フィリピン)、東京(トンキン、北ヴェトナム)、占城(チャンパ、南ヴェトナム)などと共に、現在のタイ領内の暹羅(アユタヤ)や六昆(ナコンシータマラート)に渡航する日本船も増え、1636年、徳川家光のときに幕府によって鎖国令が出されるまで、異国渡海朱印状を発給された御朱印船が交易を担いました。御朱印船によって日本にもたらされたものは、染料として用いられた蘇木(すおう)や、鹿皮、鮫皮が主な品目でした。
アユタヤにはバーン・ジープン(日本人町)が形成され、最盛時には1500人もの日本人居留民が対日貿易に関わり、駿河に生まれた山田仁左衛門長政が王の信任を得て大活躍したのもこの頃です。往時の面影はありませんが、チャオプラヤー川とその支流に囲まれたアユタヤの町の南には、今も日本人町跡があります。
また、アユタヤ王朝からの使節が日本を訪れたことが何回もあり、1616年には、外務・大蔵大臣の書簡を携えた最初の使節が日本を訪れたという記録が残されています。(ここまで)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
山田長政公は、今、タイの中でも大人気。
そして、今、この山田長政公の、映画が、バンコクで製作されています。
実は、昨年10月、
山田長政公が眠る町と言われるタイ南部のナコン・シー・タマラート県へと、
静岡日タイ協会の役員の一部がタイ国政府観光庁より招かれ、行って参りました。
長政公の石碑の前にて(場所:ナコン・シー・タマラート県)

タイでも有名な、静岡生まれの山田長政公の映画の製作は
着々と進んでおります
この映画についての情報は、また後日詳しくご紹介して行きたいのですが
今、特別に、このブログで、映画のロゴを一部ご紹介・・・・・・

監督はタイで大変有名な方、ノッポン氏。
昨年、ナコンに行った帰りに、ノッポン氏と我々静岡日タイ協会役員メンバーは
光栄にもお会いしてきました。

後列左から2番目がノッポン監督。
ちなみに、山田長政公を演じる主演の男優さんの大関さんは前列左から2番目。
あぁ、続きは、また次回・・・・・。
一昨年、タイと日本は、2006年、修好条約を結んで120周年を迎えました。
一言で120周年といっても、ぴんと来ないと思いますので、
年号で表現してみると・・・1887年9月。
この1887年9月、両国の国交が開かれました。
詳しくはこちらをご参照ください
120年前に修好条約を結んだ日本とタイですが、
実は、両国のかかわりは、もっと前から始まっているといわれています。
アユタヤ時代にも日タイの交流が・・・・・・・
上記と同じこちらのHpより抜粋
(抜粋文章ここから)タイと日本との交流の歴史は非常に古く、1338年、将軍・足利義満のときに、暹羅(せんら=シャム、現在のタイ)船が1年間日本に滞在したという記録もあります。15世紀前半から16世紀後半にかけては、沖縄(琉球王国)を経由して東南アジアに派遣された多くの船がシャムを訪れています。
16世紀末、豊臣秀吉が南蛮貿易を奨励し、
呂宋(ルソン、フィリピン)、東京(トンキン、北ヴェトナム)、占城(チャンパ、南ヴェトナム)などと共に、現在のタイ領内の暹羅(アユタヤ)や六昆(ナコンシータマラート)に渡航する日本船も増え、1636年、徳川家光のときに幕府によって鎖国令が出されるまで、異国渡海朱印状を発給された御朱印船が交易を担いました。御朱印船によって日本にもたらされたものは、染料として用いられた蘇木(すおう)や、鹿皮、鮫皮が主な品目でした。
アユタヤにはバーン・ジープン(日本人町)が形成され、最盛時には1500人もの日本人居留民が対日貿易に関わり、駿河に生まれた山田仁左衛門長政が王の信任を得て大活躍したのもこの頃です。往時の面影はありませんが、チャオプラヤー川とその支流に囲まれたアユタヤの町の南には、今も日本人町跡があります。
また、アユタヤ王朝からの使節が日本を訪れたことが何回もあり、1616年には、外務・大蔵大臣の書簡を携えた最初の使節が日本を訪れたという記録が残されています。(ここまで)
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山田長政公は、今、タイの中でも大人気。
そして、今、この山田長政公の、映画が、バンコクで製作されています。
実は、昨年10月、
山田長政公が眠る町と言われるタイ南部のナコン・シー・タマラート県へと、
静岡日タイ協会の役員の一部がタイ国政府観光庁より招かれ、行って参りました。
長政公の石碑の前にて(場所:ナコン・シー・タマラート県)

タイでも有名な、静岡生まれの山田長政公の映画の製作は
着々と進んでおります
この映画についての情報は、また後日詳しくご紹介して行きたいのですが
今、特別に、このブログで、映画のロゴを一部ご紹介・・・・・・

監督はタイで大変有名な方、ノッポン氏。
昨年、ナコンに行った帰りに、ノッポン氏と我々静岡日タイ協会役員メンバーは
光栄にもお会いしてきました。

後列左から2番目がノッポン監督。
ちなみに、山田長政公を演じる主演の男優さんの大関さんは前列左から2番目。
あぁ、続きは、また次回・・・・・。