2017年03月05日

アユタヤ「日本人街」再開発整備事業計画を発表。

JCC(バンコク日本人商工会議所)アユタヤ日本人街を整備


日タイ交流の象徴、アユタヤ(山田長政活躍の地日本人村へさらなる誘客を
目指すため、JCC(バンコク日本人商工会議所)では両国を「つなぐ」記念プロジェクトを
実施します。

1887 年の日タイ修好宣言から 2017 年は日タイ交流 130 周年を迎えます
多くの日系企業がタイに進出し、発展している基礎には、日タイ両国の長年に
わたる友好関係があります。
この関係をこれからも発展させるべく、記念プロジェクトの一つとして、JCC
日タイ修好 130 周年記念事業委員会(バンコク日本人商工会議所と日本の
民間企業で構成)は、2017 年 1 月 30 日、泰日協会のアユタヤ日本人村
再開発計画に賛同し、総額 650 万バーツ(日本円で約 2,000 万円)の支援を
行うことを発表しました。
再開発事業内容には、レストランの誘致、トイレや新たな休憩施設の新設、
フェンスの修復、日本庭園の改装、遊歩道の整備、スマートフォンやタブレット
端末の位置情報と連動し当時の日本人村を鮮やかなバーチャルリアリティ
コンテンツで再現するシステムの採用など、2017 年 10 月を完了目処としています。
アユタヤ日本人村への 2015 年の年間来客数は 28,967 人、2016 年は 42,427 人と
増加しています。
泰日協会の試算では、再開発により 2018 年には 72,000 人の来客を見込んでいます。

この時代(1600年初頭)山田長政は、近世初頭のシャム在住日本人の指導者として
。駿河(するが)国(静岡市富厚里)に生まれる。通称仁左衛門(にざえもん)。
1611年(慶長16)ごろ朱印船に乗ってシャム(タイ国)に渡る。
当時、国都アユタヤ郊外には日本町があり、多数の日本人が居住(1500~1600人)。
彼らには一人の有力者(首長)の統率下にシャムの兵士として軍務に服する者、金融業
貿易業に従事する者などがあった。
 長政が渡来したころ、城井久右衛門(きゅうえもん)が日本人の首長として日本町を統率し、
シャムの政府に重きをなしていた。やがて長政もその才幹を認められ、久右衛門の後を
継いで首長となった。1621年(元和7)同国の官爵、坤(コン)・采耶惇(サヤヤスン)を授けられ、
同国使節の日本渡航にあたって部下を差し遣わし、老中に書を送り、使節のため斡旋を
依頼した。その後もシャム国使の来朝には書簡や進物(しんもつ)を幕閣らに贈り、両国の
親善に努め、かたわら商船を派遣して貿易を行い、シャムの外交・貿易に活躍した。
26年(寛永3)には浮(プラヤ)・司臘毘目(セナピモク)に累進したが、長政は日本人を率いて
数々の内戦・外征に功をたて、国王ソンタムの信任を得た。そして同国最高の官爵オヤ・
セナピモクOya Senaphimokを賜り、シャム王室に重きをなした。28年11月、ソンタム王の
死後に起こった王位継承の内乱に、彼は日本人8000、シャム軍2万を率いて反乱を鎮圧し、
王子を即位させたが、王族の一人で王位をねらうオヤ・カラホムは長政を遠ざけるため辺境
リゴール(六崑)太守に任じた。
 1629年、長政は日本人・シャム人よりなる配下の兵数千を率いて任地に赴いたが、
パタニの侵入軍と対戦して負傷した。
彼の政敵に通ずる侍臣が傷口に塗った毒薬のため、30年夏、死亡した。長政の遺子は
カンボジアに走り、
同国の軍に合流してシャム軍と戦ったが、対戦中に戦死した。長政の没落によりアユタヤの
日本町も焼討ちされ、一時、日本人の勢力は衰退した。[加藤榮一]
『村上直次郎著『六崑王山田長政』(1942・朝日新聞社) 
▽岩生成一著『南洋日本町の研究』(1966・岩波書店)』



  


Posted by 静岡日タイ協会-NO-1 at 21:13Comments(0)日タイ修好130年記念